おわりに


脇道音楽堂 〜わたしの一曲〜編集者/柏子見

先日TVを見ていたら、テロによって頭を撃たれた外国人女性議員の話をやっていた。
彼女は一命を取り留めたものの、言語をつかさどる脳の一部が損傷したため、言葉が話せない後遺症が残ることになる。
しかし人間というのはすごいもので、損傷した脳の機能を他の部位の脳が補おうとするのだそうだ。
その結果、彼女は言葉を取り戻す事に成功する。
番組はそのユニークなリハビリ方法を紹介していた。

それは彼女に話しかける時に、節を付けて話す、つまり歌いながら単語を伝えるものだった。
単なる会話では回復しなかった彼女が、それだけで劇的に回復したという話だ。

音楽には不思議なチカラがあると思う。

考えてみれば、長い文章を憶える事は難しいのに、歌としてなら簡単に憶えられる。
口承の叙事詩というものがあるが、これは本を持たない古代の人々が、言葉を節やメロディに載せる事で後世に効率よく伝承したのだと思う。

音楽は、はるか昔から存在して、人間の本能、ひょっとしたらDNAレベルまで影響を及ぼすのでは無いかと思ったりする。

といった様に、ここでは書ききれないくらい音楽には様々なチカラがあると思うのだが、今回も脇道音楽堂を始めるにあたって仮説があった。
それはあるミュージシャンの一言だった。

「音楽って詰まるところ《救い》じゃないかと思うんです」

オフサイドスタッフのメッセージを読んでいて、それは概ね正しい事だと思った。

《救い》とは、見つからないジグソーパズルのピースのように心の中にぽっかり空いた穴、それを埋めてくれるモノが音楽ではないのではないだろうか?

思春期の頃に聴いた音楽の影響が大きいのも、それが理由のような気がする。
恋愛、反抗心、渇き、満たされない欲望、言いようのない不安……若い頃は穴だらけだった気がする。
そして歳を取った今も、違う意味でストレスや不安があり、その解消を音楽に求めている自分が確かにいる。

つまり裏を返せば、その人の《救い》となる音楽が分かれば、その人は何で悩み、何を求めているか分かるのでは無いだろうか?

心理テストでは無いけれど、もう一度そんな風にそれぞれの脇道音楽堂を見直してもらえると、面白いかも知れない。

2019.8.5
柏子見 友宏

公開日/2019年08月05日



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